[北国の春]
いではく作詞・遠藤実作曲
白樺(しらかば) 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の
ああ 北国の春
季節が都会ではわからないだろうと
届いたおふくろの小さな包み
あの故郷(ふるさと)へ帰ろかな 帰ろかな
雪どけ せせらぎ 丸木橋
落葉松(からまつ)の芽がふく 北国の
ああ 北国の春
好きだとおたがいに言いだせないまま
別れてもう五年あの娘(こ)はどうしてる
あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな
山吹(やまぶき) 朝霧 水車小屋
わらべ唄聞こえる 北国の
ああ 北国の春
兄貴も親父(おやじ)似で無口なふたりが
たまには酒でも飲んでるだろか
あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな
[赤い夕陽の故郷]
作詞:横井 弘、作曲:中野忠晴
(おーい)
呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の故郷(ふるさと)が
うらぶれの旅をゆく
渡り鳥を呼んでいる
馬鹿な俺だが あの山川の
呼ぶ声だけは
おーい 聞こえるぜ
呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の故郷が
なつかしい面影の
ひとつ星もまたたくよ
小麦畠は二人の夢を
ひそめているか
おーい 今もなお
呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の故郷が
涙ぐみ 背のびする
渡り鳥を呼んでいる
雲よ行くなら おふくろさんに
思いをせめて
おーい 乗せて行け
(おーい)
「北国の春」和「赤い夕陽の故郷」,這兩首抒發思鄉情懷的日本演歌名曲,很能觸動異鄉人的心弦。人生中,我因為在外島服役、外地就職、外國求學和事業旅驛,多年來在異地生活;家園總是我的牽掛。在異鄉的孤獨、浪漫,是一種精神上的流浪;其實,人生的終極歸屬在於家園。
古今以來的各類文學作品中,作者對家園的抒情,多以詩歌的形式表現;鄉愁,是人對自身存在歸屬的感傷。青年時期,我對家園的理解,是人道的關懷;現在,是哲學的價值信仰。社會上,有世俗的見解,就是為了政府所宣稱的經濟開發和公共利益;以及已經得到多數人讚同,就可以發補償金強迫搬遷,若不同意,則毁人家園。其實這是典型的強權霸道,恃強凌弱的惡霸行為。
古代,國家的出現,正是集眾家之力,築外廓城牆,共禦外寇,以成一國;各地眾家也如此,而有「諸國林立」的現象。眾家既成國家,又為了資源不均,而交互攻伐兼併。國家之意義,本來在於對內保民養民;若國家不行公道,對外侵略,對內掠奪,必將失去正義,只是恃強凌弱的強盜國家和土匪政府而已。
國家的代表是政府;公職之人既食公糧,拿俸祿,在人性上就是爭功諉過和卸責奉承,以符上意。也因此,國家的公義不彰是普遍存在的罪惡;而讓人民無奈地期盼,願「邦國高舉公義」,期待人間世上,真的有「公義國」。其實,這是幻想!最後,必然走向神學的告解和嚮往天國。
西方歷史上,「古希臘」的「蘇格拉底」在法庭上,為個人安身立命的家園「雅典城邦」的理想,而在法庭上抗辯,最後為自己的信仰而身殉;「基督教」出自「猶太教」,為了在嚮往的「天國」建立家園而被驅走和迫害。歐洲「中世紀」的「馬丁‧路德」牧師,高擧人民自己可以「因信稱義」的旌旗,而與神職官僚的「羅馬教廷」對抗,而使基督教走向公開地分裂。
家園的意義,可以從個人處境的現實,到價值信仰的選擇。家園,對於生於斯、長於斯的個人,是情感的寄託,更是生態的共存;讓彼此互相交織,而成為記憶的,是成長愛戀家園的歷史和回憶。人民對家園的終極闢懷,那是價值信仰;很遺憾地,不在權力本質的國家和政府的治理藍圖中。
家園,被以國家之名的強盜政府摧毁的悲劇,仍然會重演。從「蘇格拉底」以來,「家園毀了!」的悲劇從未消失!鄉愁何去?